記録帳

日常の体験と、読書、映画の感想を主に書きます。

NHK カズオ・イシグロ「文学白熱教室」

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先週、NHK教育カズオ・イシグロの講義っていうか、講演をやっていたのでそれについて書きます。

私が興味を引かれたのは「記憶」についてのくだりです。

「人は意図的に記憶を歪めることがある。」「思い出したくない記憶を封印してしまうことがある」ということを、著者新作の『忘れられた巨人』に絡めて述べられたのですが、私がその時さっと思い出したのは、小説『わたしたちが孤児だった頃』でした。

 

『わたしたちが孤児だった頃』ネタバレあり!

主人公は上海に住んでいたのだけれど、両親が謎の失踪を遂げ、他人の手に託されたため、イギリスの寄宿学校に入ります。そこで育ち、長じて探偵になった主人公は、両親の失踪の真相を突き止めるべく上海に帰るのですが、大戦前の混乱によって、迷路のような不可解な状況に陥ります。何者かが真相の究明を妨げようとしているかのようなわけのわからない状況は、まるで主人公自身の混乱した記憶のようです。最後の最後になって、やっと、母親が本当にさらわれたこと、そして主人公の命を助け、成人するまで養うという条件で、麻薬王の奴隷になっていたことが判明します。何年もたってから母親と再会したものの、すでに彼女は何もわからなくなっていて、彼にできることは何一つないのです。

彼は謎を解明することに一生を捧げました。それを職業にしてしまったくらいです。幼い時に抱えてしまった記憶が、彼の一生を支配したと言えるでしょう。

人には思い出さない方がよい記憶というものが確かにあります。でも、思い出さないまま一生を無事に終えることができるでしょうか。不可解な衝動に駆られて、否応なしに記憶を探し求めてしまうこともあるのではないでしょうか。

 

イシグロ氏は第二次大戦後のフランスを例に取りました。

大戦中、フランスはナチスドイツに占領され、否応なしにドイツ軍に協力することを求められました。それに反抗して、レジスタンスに身を投じた人もいましたが、また、密告をし、彼らの処刑に手を貸した人たちもいます。戦後、ド・ゴール大統領は、国民の分断を恐れ、すべての事実を明らかにするのではなく、復興のために両者の和解を優先するという政策をとりました。そのため、封印されてしまったこともたくさんあるに違いありません。

それで私が即座に思い出したのは『サラの鍵』です。

 

映画『サラの鍵』ネタバレありあり

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映画『サラの鍵』は第二次大戦中のフランスにおけるユダヤ人迫害の事実を、身近で掘り起こしてしまったジャーナリストの話です。

このブログにあらすじが詳しいです。⇒

サラの鍵(ネタバレ)|三角絞めでつかまえて

さて、ユダヤ人の一家のアパートに警察がやって来ます。サラは、弟を守るため、クローゼットの中に弟を隠して鍵を掛けます。ユダヤ人がみんな競技場に押し込められた後、両親はそのことを知って狼狽し、激怒し、「自分が何をしたかわかっているの?」とサラを責めます。サラは真っ青になって、「必ず助けに帰る」と決意するのですが、逃亡してから親切な農夫に助けられ、アパートに帰ってくるまで何ヶ月もたちます。

もう、見ている私はドキドキして、「どうか、見つかりませんように。」と必死で祈りましたが、その甲斐もなく、サラは弟の亡骸(多分ミイラ)を見つけてしまったようです。

 

偶然、この事件を突き止めてしまったジュリアに対して、夫は言うのです。「アパートに引っ越して来たとき、クローゼットがどうしても開かず、どこからともなく腐った臭いがした。父は雨樋の中で小鳥が死んでいるのだろうと言っていたが、臭はなかなか消えなかった。」

そして夫は、ジュリアが家族の秘密を暴いてしまったことを責めます。「サラが来たとき、母は買い物に行っていたので何も知らなかった。今ではみんな知っている。それで満足か!」

自分の家のクローゼットに子供の死体が隠してあった・・・なんて、だれが知りたいものでしょうか。だけれど、小さな子供だったサラがどんな目に遭い、その後どうなったか、それを思うと、このことを隠したままにしておくわけにはいきません。致命的な体験というのがあると同時に、「知ってしまったら二度と昔の自分には戻れない」致命的な記憶というものも、あるのだと思います。だから人は自分を守ろうとして記憶を歪めたり、封印したりする。サラは、致命的な体験をして、それを決して忘れることができなかったために自分で命を絶つことになりました。私たちは、たとえ、知ってしまったら元の無邪気な自分ではいられなくなるとしても、それでも知らなくてはならないことがあるに違いありません。私たちの無自覚な行動が、二度と惨劇を引き起こさないために・・・・

 

たとえ辛くても、真実を知らなくてはならない~ということを、カズオ・イシグロの小説は繰り返し言っています。ずっと虚構の中に生きていければよいのですが、そういうわけにもいかないのです。だから小説は、真実に耐える訓練と勇気を私たちに与えてくれるのだと思います。