記録帳

日常の体験と、読書、映画の感想を主に書きます。

森博嗣 「すべてがFになる」

昨年は森博嗣の小説を集中的に読みました。

「ヴォイド・シェイパ」シリーズを読んで、スカイ・クロラに似た雰囲気にすっかりハマってしまったのです。それで何冊か読みふけった後、未読だったすべてがFになるも今こそ読まなくっちゃと、文庫を買って半分まで読んだところで、なんと、深夜のTVアニメでちょうど放送していることを発見しました。

じゃあ、続きはアニメで見ようと思っていたら、どうも、原作とはちょっと違っているようです。調べてみると、アニメには「四季」シリーズの要素が含まれているとのこと。おかげで、密室殺人の謎解きに重点が置かれていた原作よりも、物語に奥行が出ています。まあ、トリックは難しすぎてよくわかんないんですが、それよりも、原作だけでは殺人の動機がさっぱりわからなくてチンプンカンプンだったのが、アニメの最終回を見たらなんだかわかったような気がしてきたのが不思議です。

 

【すべてがFになる】第11話 感想 凡人の限界を感じた…【最終回】 : あにこ便

 

動機、あるいは目的

真賀田四季犀川との会話

四季「死を恐れている人はいません。死に至る生を恐れているのよ。苦しまないで死ねるのなら、誰も死を恐れないでしょ?」

犀川「おっしゃるとおりです。」

四季「そもそも、生きていることの方が異常なのです。死んでいることが本来で、生きていることはそれ自体が病気なのです。病気が治った時に生命も消えるのです。」

犀川「あなたは、死ぬためにあれをなさったんですね。」

四季「そう。自由へのイニシエーションです。」

犀川「警察に自首されるのですね。」

四季「自首したのでは死刑にならないかもしれませんね。」

犀川「どうして御自分で・・・その、自殺されないんですか?」

四季「たぶん、ほかの方に殺されたいのね。自分の人生を、他人に干渉してもらいたい。それが、愛されたいという言葉の意味ではありませんか、犀川先生?

自分の意志で生まれてくる生命はありません。他人の干渉によって死ぬというのは、自分の意志ではなく生まれたものの、本能的な欲求ではないでしょうか。」

犀川「理屈としてはわかりますが・・・、いや、やはり僕には理解できません。しかし、それは僕がそうプログラムされているだけで、あなたがおっしゃることは正しいかもしれない。」

四季「私には正しい。あなたには正しくない。いずれにしても正しいなんて概念は、その程度のものです。」

 この後、「クロックが違う」というような言葉があったので、確かに、正しさの概念なんて時代によって、状況によって、相対的なものだなあと思いました。

すると真賀田博士は、自分の子供とその父親、それに自分の両親さえも殺したことを悪いとは思っていないのです。なぜって、生きていることが良いことで、死ぬことが悪いことだとは思っていないから。そう言えば、「15歳になったら親を殺して自由になる」というのが人間のあるべき生き方と思っていたのでした。

まあ、普通ならサイコパスの一言で片付けてしまいますけど、年取って手のかかる親に散々悩まされてヘトヘトになっている私としては、「あー、そうかもな。」とちょっと想像してしまいました。

だって、平均寿命が80何歳なんていう今の日本の状況はまったくの想定外のことで、これから、国も社会も個人も、介護が必要な老人の面倒を見切れなくなるのは時間の問題じゃないですか。

先日、90歳の叔母さんが電話してきて、「こんなに長生きするとは思ってなかった。いったいいつ死ねるのかと、我ながら呆れる。はやく死ねばいいのに。」と繰り言を言うので返事に困りました。本人も早く死にたいものだとずっと言っているのですが、自殺ってわけにもいかず、死ぬまでは生きてなくちゃいけないので辛いのです。

「長寿でおめでたい」なんてニュースで言ってるのを見ると「何がおめでたいものか!」と思います。最近は猫も杓子も長寿なんです。珍しくもなんともありません。

もしかしたら本当はみんな密かにそう思っているのかもしれませんが、「長寿は良いことだ」という前提で社会が成り立っているのだからそういう建前にしておかなくてはならないのだと思います。人はその手の多くの思い込みに支えられて生きているのです。思い込みの前提が一つ欠けただけで、不安に駆られて人生が崩壊してしまうかもしれません。

 

生きる意味について

 

四季とミチルとの会話

ミチル「お母様、海は月より人間に必要なものに思えます。」

四季「それは、人間との関係が強いということ。」

ミチル「人間も、他の多くのものと関係しているのですね。」

四季「そうです。一人一人の人間の存在が、その周辺に影響を与えます。でも、人は、周りの人やもののために存在しているのではありません。つい、誰かのためになりたい。みんなの役に立ちたい、それを自分の存在の理由にしたいと考えがちなのです。存在の理由をわからないままにしておけないのね。常に答えを欲しがる。それが人間という動物の習性です。」

ミチル「欲しがってはいけないのですか?」

四季「いいえ、欲しがることは間違いではありません。しかし、完全なる答えなどないのです。でも、それを問い続けることは、とても大事なことなのです。」

ミチル「近づくことはできるのですね。」

四季「そう考えればよいと思います。でも、私にもまだわかりません。」

ミチル「お母様にもわからないことがあるのですか?」

四季「もちろんです。わからないことがあるから、人は優しくなれるのです。」

ミチル「どうしてですか?」

四季「すべてがわかってしまったら、何も試すことができません。何も試さなければ、新しいことは何も起こらない。人はわからないことの答えを知りたいと思って追い求める。そこに、優しさや懐かしさ、そして喜びや楽しさが生まれるのです。」

ミチル「私はお母様にいつも聞いています。こうして答えを求めることで、私は優しくなれますか。」

四季「そうね。私がいないときも、いつも問いなさい。誰も答えてくれないときも問い続けなさい。自分で自分に問うのです。それを忘れてはいけません。それがあなたの優しさになるでしょう。」

 こんなに娘を愛しているのに、自分を殺さないからって殺しちゃうってのはやっぱり理解不能ですが、あっ、そうか、電脳の世界で存在し続けていればこの人にとっては生きてるのと同じってことになるのかな、とか、やっぱり「四季」シリーズを読まないとよくわかりません。しかし、「存在の理由を問い続けるのが人間の習性」というのは身につまされてよくわかります。

 

実家の父が亡くなる前、延々と自分の人生を語りだし、更には親戚一同やご先祖様たちについて何代にも遡って解説をし始めたので往生したことがありました。エンドレスなんです。しかも男はロクデナシばかりなんです。これはいったい何なんだ!と思っていたら、ガンで入院した病院で、要望を聞きに来た緩和ケア科の先生の前でまた、「戦時中や終戦直後は食べるものがなくて苦労した・・・」という話を唐突にし始め、業を煮やした私が、「それで結局何が言いたいの?」と言うと、「頑張って生きてきた自分を褒めて欲しい!」とキッパリ言ったので、やっと腑に落ちたということがありました。

「頑張って生きてきた自分を褒めて欲しい」のです。みんな。

私は、父に対しては、いろいろと恨みつらみがあったので、実のところは「何を傲慢な!このくそじじいめ、早くくたばれ!」と内心思っていましたが、家族の誰も何も言わないので仕方なく、「お父さんは今までよく頑張ってきたよ。仕事も大変だったのに、私たちのために続けてしんどかったね。ありがとう。」としおらしい声で言いましたら、父は泣きそうな顔になって、やっと昔話が終わりました。

「人に評価してもらわないと人生には意味がないのかよ!」

とか、

「散々自分勝手なことをしてきて、何が今更『褒めて欲しい』だ!ただのロクデナシじゃないの!」

とか思いましたが、とにかく「めでたし、めでたし」という締めの言葉がないと終われないんでしょう。昔話ですから。

そう言えば亡くなった姑も入院中、「うちは、病気ばっかりして迷惑をかけてごめんなあ。」と言うので、「お義母さんは、今まで仕事ばかりしてきたじゃありませんか。もう十分働いたんだから、ちょっとは休んでもバチは当たりませんよ。」と言うとすごく嬉しそうな顔をしていました。人間は、他人に自分の価値を認めてもらわなくては生きていけない(あるいは、死ねない)んだと思います。

似たようなことですが、認知症で施設に入っている父方の伯母が、「仕事(ミカン作り)ができなくなって、生きている資格がない。」と言って嘆いているという話を聞きました。もうすぐ90歳なんですよ。伯母に生きている資格がないなら、のんべんだらりと暮らしている私なんて、もっとありません。生きる意味とか、資格とか、そんなものは元からないのです。生まれてしまったから、死ぬまでは生きなきゃいけないんです。それを、意味があるかのように思い込んでいるだけなんです。

意味なんかなーい!

と言いたいところですが、みんな、「ある」と思い込んで生きていることで社会の秩序が成り立っていて、辛うじて私もそこにぶら下がって生きているので、そういうことは決して人に言ってはいけないんだと思います。

 

だから、「すべてがFになる」は、ある種の思考実験なんだと思います。まあ、そうなんでしょうけど。