記録帳

日常の体験と、読書、映画の感想を主に書きます。

NHK  100分de名著『旧約聖書』

暑くてややこしいことはあんまり書きたくないのですが、神様が出たついでに思い出したので、まあ書いておこうかと思います。

NHK 100分de名著『旧約聖書』を見て

2014年の5月に放送された番組ですが、私は再々放送で確か11月頃見ました。ある日TVをつけたらこの番組をやっていて、旧約聖書を取り上げるなんてすごいなあと思いながら見ていたら、内容もすごいことをおっしゃっていて、しかもその例えが身につまされてわかっちゃったので、できるだけ要約してそこのところを再現してみたいと思います。

 

古代ユダヤ民族の歴史

私はキリスト教主義の大学に行ったので、聖書については必修の授業で習っています。だから番組で言われていたことはすべて知っていましたが、よい復習になりました。

ユダヤ教の成立とその背景について、できるだけ簡潔にまとめてみます。

 

(テキストの「第2回 人間は罪の状態にある」を参考に要)

ユダヤ教一神教の宗教です。まず、神が彼らユダヤの民を選び、彼らはそのヤーヴェという神だけを自分たちの神とするという契約をかわします。

紀元前1230年頃、エジプトに奴隷として囚われていたユダヤの人々が、指導者モーゼに率いられて脱出し、苦難の末たどり着いたカナンの地で定着して、その後王国を築きます。ソロモン王の時代にはエルサレムに神殿が建設され、王国は栄えます。

ところがその後、紀元前932年頃、王国は南北に分裂します。

南はユダ王国(首都エルサレム)、北はイスラエル王国(首都サマリア)となります。そして、他国からさまざまな多神教の信仰が入ってきて、ユダヤ教一神教崇拝はゆらいできます。特に北王国ではその傾向が強く、それに対抗してこの頃「ヤ-ヴェだけを神とするべきだ」と主張する原理主義的な預言者たちが活躍します。彼らの中には多神教的な人たちに対する迫害(虐殺)を行った人たちもいます。わあ、いつの時代にも宗教的迫害ってあるんですね。

それにもかかわらず、多神教を根絶することができなかった北王国ですが、思いがけないきっかけで、本格的な一神教信仰が生じることになります。

王国の滅亡です。

紀元前722年頃、アッシリア帝国によって北王国は滅ぼされます。南王国はアッシリアの属国として辛うじて生き延びることができましたが、そのアッシリアバビロニアによって滅亡、南王国も滅ぼされ、ユダヤの民はバビロニアに奴隷として捕らえられます。(バビロン捕囚)その後、パレスチナに帰った人々も、ペルシア、ギリシャ、エジプト、シリア、ローマなど強国の支配下で暮らすこととなり、再び独立国を作ることはできませんでした。

 

ユダヤ教徒とは・・・

そのような激動の歴史の中で、ユダヤ教を信仰していた人たちは、神を信じる人と信じない人の2種類に分かれます。

どんなに信仰していても神は北王国の滅亡を防いでくれなかったのです。役立たずの神です。にもかかわらず、「ユダヤ民族の神はヤーヴェだけであり、ヤーヴェを信仰しないものはユダヤ民族ではない」という論理で信仰を捨てない人たちがいました。「人が神を選ぶことはできない」のです。選ぶことができないのですから捨てることもできません。「ユダヤ民族の神はヤーヴェだけ」という強固な、「本格的一神教」の誕生です。

ここで、「なんだ、ヤーヴェってだめじゃん。全然ご利益ない。もう捨てちゃお。」と考えてユダヤ教の信仰を捨てた人々は、自動的に「ユダヤ民族」の範疇から外れてしまいますから、どっかよそに消えていってしまいます。(多分、後々イスラム教あたりに吸収されていると思う。)

 

これってコペルニクス的転換?

ヤーヴェの神はいざという時に民を守ってくれない「ダメな神」「頼りにならない神」です。だけどユダヤの民にとって神はヤーヴェだけですから、「ダメ」だなんて考えることはできません。そこで、「苦難が続くのは、神がダメだからではなく、民の方がダメだからなのだ」という発想の転換が起こります。「民がダメだから、神は答えてくれない」のです。ここで「罪の概念」(原罪?)が効いてきます。人間は生まれながらに罪を背負っているダメダメな存在です。どんなに神を信仰し、行いを正しくしようと心がけていても、そのマイナスの状態はひどくって、ちょっとやそっとでは償うことはできないのです。だから苦難に耐えるのは当然であるし、神はなかなか答えてくれないのです。そして、神が答えてくれなければくれないほど、もっと民は信仰を深め、精進しなくてはならないのです。

 

ここで、番組の中で講師の加藤隆先生(千葉大学文学部教授)が挙げられたのは「不在の夫」の例えです。

 

沈黙する神

結婚している夫婦なのに、夫の方ががどこかに行ってしまっていて、家にいないような状態にあるのです。強盗が来て家を壊し、家財を奪ってしまっても夫は現れません。しかし妻は離婚しようとはせず、夫と婚姻関係を継続し続けます。夫が消えてしまい、何もしてくれないことについて妻は「自分が悪いから」と考えます。自分は悪い妻であると思うので、夫を責めることもできないし、夫を見限って他の男に走るということもできません。夫を無条件で愛さなくてはならないと考えるのです。

この「不在の夫」の例えのように、ユダヤ民族が国を滅ぼされ奴隷にされてしまっても、悪いのは神ではありません。不幸のどん底に突き落とされたとしても、それは「民が罪の状態にあるから」で、「神の沈黙」は当然のことと正当化されます。だから決して神を見捨てることもなく、まして他の宗教に走るなどということはありえないのです。そして強固な信仰を持ったユダヤ教徒は、神の意に沿うためにどのような生き方をすればよいのか、律法を細々と定め、ルールでがんじがらめの生活を送ることとなるのです。

 

うちの父のこと

ここで私は二つのことを思い出しました。

一つ目は私の両親のことです。

父は昨年亡くなりましたが、両親の状況は講師の先生が例に挙げられた夫婦関係にちょっと似ています。

父は亡くなる3年前から認知症を患い、様々な問題行動で母を苦しめました。特にひどかったのが言葉の暴力です。毎日毎日、朝から晩まで何時間も母の欠点をあげつらい、昔こんなことがあった、あんなことがあった、実家がどうだったこうだった、料理が下手だ、教養がない・・・などとありとあらゆる悪意に満ちた文句をしゃべり続けていたのでした。それは通院によって少しは改善しましたが、結局死ぬまで続いたので、母はうつ状態に陥って弱るし、私は、父がこんなにも執念深いイヤな性格の奴だったってことに初めて気がついて愕然としたのでした。

ところが母は、当時どんなに私が「これはDVの一種だ」と言っても受け流し、「私が至らないから」と言って、朝から晩まで細々としたルールを作り上げて父の世話をするのです。食事から部屋の温度管理、お風呂に布団、ありとあらゆることにルールがあるのです。トイレなんて、シングルとダブル2種類のトイレットペーパーが壁に付けてあって、しかも、シングルは折り畳むのが面倒くさいと父が言うものだから、母が適当なサイズに折り畳んだものを幾枚も作って別の籠に入れて置いているのです。居間も父の言うなりで、すべての物が見えるようにテーブルに並べてあるものだからもう散らかり放題です。父はもちろんのこと、母もそれがおかしいと思ってないらしのです。もー、父が死んだ後、部屋をきれいさっぱり片付けた時には心底清々としました。

ところが、私が「お父さんは本当にひどい人だった。認知症を考慮しても、あの物の多さと散らかりようは尋常じゃなかった。」などと言おうものなら、「それは私が悪い。私が片付けなかったからよ。」などと、父を擁護するのです。そして、「お父さんの悪口を聞くと、自分が責められているようで辛い。」と言って泣いたりするのです。私には理解できません。あれだけひどいことを言われ続けたのに・・・・。これってマインドコントロール?

DVを受けた人が自尊心を取り戻して、「夫はひどい人だ」と認識するのに時間がかかるってほんとなんですねえ。母はもう年なので状況を客観的に見る能力も衰えていて、今までの苦労はすべて、「最後まで必死にお父さんを看病して看取った」という心温まる美しいドラマみたいなものにすり替わって記憶されてしまっているのでした。「あの時どうだったこうだった」などというほのぼのとした回想をされると開いた口がふさがりません。「死にたい」とか言ってたくせに・・・。

 

 

まあ、そんなこんな、個人的な恨みがあるので、ユダヤ教徒と神の関係というのはとても理解できません。どう見ても、横暴な夫(神)に洗脳されて我を失っている状態としか思えません。講師の先生も、あのような心理状態を、「人間の生活の中では珍しいことではないけれど、これが一つの民族の単位で本格的に生じたのは、歴史上、ユダヤ民族だけで、たいへん特殊なことです。」と言われていました。

いえ、決してユダヤ教徒を誹謗中傷しようってわけではないのですけど。

探してみたらこの回の動画が見つかりました。

www.dailymotion.com

 

もう一つの思い出したことというのは、長くなったので次回に書きます。